| 理容店の看板〜赤・白・青の謎〜 |
| 理容店の看板の「赤・白・青」のあの3色は、かつて理容師が外科医を兼ねていたことに起因しています。 中世のヨーロッパでは、理容師の仕事は髪をカットしたり髭をシェービングすることにとどまらず、歯の治療や傷の手当てまでを行う「理容外科医」という職業でした。7、8世紀頃には既に職業化していたそうですが、理容の歴史は、後に医学が発達するようになり、外科が医学の分野として記録されるようになった12、3世紀頃から外科医史に登場します。 その当時のポピュラーな治療法のひとつに、『瀉血(しゃけつ)』がありました。その様子は、14世紀に出版された「ラトレルの聖詩篇」に描かれていますが、これは「身体の悪い部分には悪い血が集まる」という考えから、その部分の血を抜き取るという治療法でした。 治療に際しては、患部を切開して血を抜き取る際に、患者に棒を握らせ、腕を固定し、そこを伝って受皿に落ちていくようにしていましたが、術後に血のついた棒をそのままにしておくのは衛生上好ましくないとのことから、その棒を赤く塗って使用するようになりました。 その棒は、barber-surgeon's pole(理容外科医の棒)と呼ばれ、後にbarber's poleつまり理容店の棒と呼称されるようになったといわれています。 治療が終わった後、洗浄したその棒と傷口に巻いた包帯を店の軒先に干していたところ、風に吹かれてその包帯が瀉血棒に螺旋状に巻き付き、バーバーポールが転じて理容店の看板・サインポールの原形になったと言われています。 後に、1745年にイギリスで、理容師のユニオン(組合)と外科医のユニオンが分裂した際に、外科医は赤白に、理容師は青を加えることが定められたため、理容店の看板が今日の赤・白・青の3色になったといわれています。 この他にも、ナポレオンが最終的敗北を被ったワーテルローの戦い(1815)の際、野戦病院の入口にフランス国旗を旗棒に巻き付けておいたものが、そのはじまりとする説もありますが、年代的にみて「瀉血棒説」の方が確実で信憑性の高いものであるようです。 |
理容店の看板〜日本はどうなっているの〜
西洋理髪は、明治維新の際に、他の西洋文明とともに輸入されましたが、そのルーツ「理髪外科医」からのなごりで、理容店の看板・サインポールの色は、日本においては、赤は「動脈」、白は「包帯」、青は「静脈」とも言われています。(この説の方が一般的に通用していますが…) ただ、呼称の部分においては「バーバーポール」や「サインポール」という名称は当初使われず、形状から捉えられた呼称が使われていました。 「武江年表」の明治4年4月の項に「この頃、常盤橋御門外髪結床に西洋風髪剪所(かみはさみところ)の招牌(かんばん)を出す。太き棒の頭に宝珠の形を彫り、右の棹へは朱白藍色の左巻という塗分けにして立てる」と記されています。 また、明治5年の名古屋新聞によると、すでに「東京府下、髪結店凡三千餘軒あり、近来紙格に英佛髪サシ所と題し、店前に赤と青の捩れたる棒、高さ五尺許、項に金の玉を付したる看板を建たり」との記述もあります。 これらの看板は、どちらも赤と青、そして白の色使いで螺旋状に捩じれているものとなっていますが、「アルヘイ棒」と呼ばれていました。 明治6年の「江湖機関西洋鑑(うきよからくりせいようめがね)」に、『散髪床・有平の看板』とあります。有平(アルヘイ)の語源は、安土桃山時代にポルトガルから伝来した砂糖菓子alfeioaに由来しています。そのひねりを加えた形によく似ていたことから、アルヘイ棒と呼ばれました。 後に、アルヘイ棒は、その名前が転じて「あめん棒」とも呼ばれていたそうです。 |
床屋の発祥地は…〜そして床屋という名称の由来〜
| 髪結職の業祖に関しては「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられています。それによると、『亀山天皇の頃(1259〜74)、京都北面の武士の藤原晴基は、御預かりの九龍丸の宝剱の紛失の責任から浪人し、子息の采女亮(うねめのすけ)とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関へ下り、往来の武士を客として月代そり髪結業を営み探索を続けた。晴基は弘安一年(1278)没し、采女亮は3年後この地を去った。〜中略〜十七代目の藤七郎は元亀三年(1572)、武田信玄に敗退中の徳川家康の天竜川渡河の案内をし、その功績で笄(こうがい・髷に横にさすかざり)と銀銭一銭を賜り、以後一銭職と称えるようになった。〜後略〜』と伝えられています。 つまり、采女亮が下関で髪結いの仕事をはじめたのが床屋の始まりとされているのです。 なお、采女亮が開いた店には床の間が設えられ、そこには亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから、人々は「床の間のある店」→「床場」→「床屋」と呼ぶようになったと言われています。 采女亮は建武二年(1335)七月十七日に没しましたが、昭和初期の頃まで、全国の理容・美容業者は敬髪と始祖の冥福を祈るため、毎月十七日を定休日としていました。 なお、十七日定休日にはもう一つの説があります。それは、天竜川渡河の案内をした徳川家康、後に江戸幕府を開いた征夷大将軍ですが、その家康の命日が十七日(元和二年四月十七日没)であったことに由来するというものです。いずれにせよ、十七日は髪結職にとっては特別で重要な日であったことだけは間違いなかったのです。 なお、山口県下関市の亀山八幡宮には、この地が床屋誕生の地であることを記念した「床屋発祥の地」記念碑がありますので、興味のおありの方はぜひ訪ねてみて下さい。 (住所は下関市中之町1−1です) |